2018年10月12日金曜日

 彫刻家の作品をみながらクスクス笑う。彼女の形を見つめながら、私は「なるほど」とか「だけどでも」とか「ふうん」とか、いろんな気持ちになる。彼女との会話もとてもおかしい。頭の中で彼女のセリフを思い返してクスクス笑う。スカスカなのだ。彼女の言葉はいつだって。密度が全然ない。空っぽで無意味で、とんちんかん。だけどとっても可笑しい。私が世界を見つめて驚愕していると、彼女も時々発見したことを驚きながら教えてくれたりする。忍者のように私の横にピトっと体をよせてヒソヒソ話で彼女が発見したことを教えてくれるのだけど、私はいつも「・・・?」となる。彼女の大発見はいつだって、無意味。

 彼女の名前は私の姉の名前と一緒。美術大学のエレベーターで彼女の顔を見て親近感を感じたのを思い出す。彼女は私が大好きだった前の大学のトルコ人の友人に顔がどことなく似ていた、というのと、あと姉にもほんの少しだけ顔が似ていたからだと思う。

 彼女の作品を見つめながら思ったことを、口にしていく過程で私は自分の感性を理解していった気がする。だから「無視していいものなんて何一つない」という気持ちになっていった。もともと人を無視することがとても苦手だった私だから、きっといろいろ気づくことができたのだと思う。

 私が大好きな小説家がスイスで暮らした時に、スイスにかけてるものは「悪」だといっていたことを知る。私は姉がスイスで暮らしているころ招待されてこう答えたのだ。「うーん。でもスイスには闇がないでしょ?綺麗に整理整頓されてしまっていて、安全は保証されているのだろうけど。」行ったこともない国のことを「スイス」という言葉の響きだけで、判断して私は断固として足を運ぼうとしなかった。
  
 私は一体どうしてそんなことを感じるんだろうと思ったら大好きな作家がそう言っていたのを知って、きっと彼女の記憶の断片が私の身体の中になんらかの形で封じ込められているのかもしれないと感じた。細胞レベルで記憶が残されていると思えば、行ったことのない土地のことも、身体は知っている可能性はある、と思う。さて、勉強を復活しよう。

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