2018年9月8日土曜日

彼女の話をしよう。そう、あと少し情報をつめこまないといけないから。私が彼女の言葉と出会ったのはある本を通してである。その本の中で彼女の言葉は断片的に紹介されていた。その断片的な言葉から私はすぐに彼女が「何について話しているのか」を理解した。

彼女の言葉が私にとって特別なものなのは、彼女が「何も説明しないから。」彼女は理屈で世界を整理しようとはしない。彼女は「感覚的に」「感情的に」世界を整理する。道徳という人間が社会を成立させるために作り出した「規則」に彼女は騙されたりはしない。
自分をよりよいものに見せることに興味を持っていない。自分自身を「道徳をもった」「よい人間」として描くことにむしろ彼女は抵抗を示す。より知性を磨き、より知的な生き物であることを言葉たくみに表現し、他者よりも自分自身が価値があることを示そうとするような目的のために彼女は自分の言葉を使わない。

 彼女は自分が自分であるということ以上に価値があることはないということをよく知っている。自分を「よく見せる」ことに関心はないのだ。彼女の言葉は容赦ない。現実の醜悪さからも目を背けずに、それを美化したり正当化することもなく、描こうとする。彼女は自分自信が特別な人間だという意識を持つことに抵抗をしめす。何よりも美化されて崇拝されることを嫌悪する。
  
 自分自身であることを認めることは自分自身の不完全性を受け入れることでもある。彼女はこういう。「自分の文学が素晴らしいものでないのはわかっている。でもそれは私が素晴らしい人間ではないから仕方がないこと。もしも私の欠点を私の本から取り除いたらそこにはなにも残らない。それほど私には欠点しかない。残るのは18歳の女の子の読むうすっぺらい雑誌くらいのことしか残らない」

  私が「偉大な作家」になることに関心がないのも同じ理由。私自身が偉大じゃないから。私を鏡にみて「今日も偉大」と思ったことはない。もしも彼女の文学から欠点をとりのぞいて18歳の女の子がよむうすっぺらの雑誌以外何も残らないんだとすれば、私の文章からけってんを取り除いたら何が残るんだろう。「それでも世界が好き」というふわっとした感情くらいしか残らない気がする。

0 件のコメント:

コメントを投稿