2018年9月4日火曜日

 これでもか、と身体の中に言葉を詰め込んでいく。ジュリアクリステヴァ、の「論理」を追いながら自分と母の関係を思い出そうとする。「自己は自分と他者との間に境界線をつくり、自分の言葉で話しはじめることから、始まる。」

 そうなの?言葉は世界を分離していくものなの?私は言葉は世界をつなげていくものだと感じてる。ちょうど「へその緒」を通して母とつながっていたみたいに、つながりを求めて言葉を交換する。「あなた」と「わたし」がまた一つになれるように。

 少なくとも私にとって言葉は差異を示すものではなかったと思う。いつだって共通事項を探して他者とつながる方法を探して言葉を並べてきた気がする。だけどつながりたくもない他者にたいしても同じようなことをしてしまうから、言葉が身体に流れ込んできて、そのあとはよく拒食症の人みたいに言葉を吐き出した。私が人に会いたがらないのは、他者の言葉をたくさん飲み込んだあと身体が痛むからだ。すべての人がそういう痛みに耐えながら生活しているのかと思ったら、そうではないらしい。そのことに気がついてから私は少しずつ「吸収すべき言葉」と「そうでない言葉」がどういうものなのか自分なりに判断することにした。

 私の身体が拒絶する言葉の種類をきちんと記憶に残していく。「食べたあとに憎悪で気持ちがいっぱいになった。」とか。毒性の植物にはしっかり記しをつけておく。「食べてはいけない」と。

 クリステヴァの言葉は私には浸透しない。彼女は感情の方程式を見つけて、それをすべてに当てはめて世界を細かく分析しているみたいだけど。虫眼鏡で世界をみつめたところで、「本当の姿はみえてこない」最先端の科学技術を使っても量子の世界を「正しく」見つめる方法がないのと同じ。光をあてた瞬間に光を当てる前の姿とは違う形に一瞬でかわってしまう。「あなたの視点」が「すべて」を変えてしまう。だから「あなたの視点」が
「すべて」だと思うことが間違いの始まりなのだ。フロイトがした間違いはそういう種類のもので、女性がそれを見習って反駁しているのをみると「間違いを真似しても意味ない」と感じてしまう。

 それっぽく言葉を並べて世界を正しく認識できていると断定的に語りたがる「論理的な人々は」たった一つの言葉を言えないがために、世界を理屈の中に閉じ込める。「確かではないけれど」その注釈がついていないから、私は彼女たちの文章を信用しない。

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