2018年7月8日日曜日


 誰の言葉を信じるべきなのか、本を読みながら考える。女性を愚弄する言葉を見つければ、その人が「そう感じずにはいられなかった」理由を考える。ある他者が無価値であると決めつけることができれば、自分は価値があると感じるのが容易になる。神話にはそういう感情を正当化する力がある。神話の多くは、私たちを盲目にして目のまえにある現実から背けることを許してくれる。

 その誘惑に多くの哲学者が勝てていないと私は思う。自己を肯定するための哲学なら私はいらない。

 あるアイドルの女の子がテレビでソクラテスやガリレオを引用して「処刑を恐れて自分を殺すくらいなら、自分に正直に生きて処刑されるほうがいい」と言っていた。もっともらしい言葉に人は説得されていたけど、私は「自分に正直に」が「ワガママ」と同義で使われていることが気になってしまう。自分の欲望に忠実であることを「自分に正直である」と定義すれば、自分の思いを人に押し付けて他者がその下で苦しむようなことを肯定してしまう。抑圧や差別は、自分の思いの方が価値があり、それが優先されるべきだと信じる人たちによって肯定される。

 ガリレオやソクラテスは、自分に正直だったわけではない。目の前の現実を正しく捉えようとしたのだと思う。そしてそうやって彼が自分の思考でたどりついた結論は多くの権威の価値を否定することになった。権威はプライドを傷つけられ、彼らの口を封じることを選んだ。

 ガリレオを異端審問にかけた教会はそれから数百年も経ったあとに、ガリレオが正しかったことを公に認め、その時それを断罪した人たちは決して悪意があったわけではなかったと弁解した。悪意がなくても、人は正しい人を殺すことができてしまう。神を信じる人たちが、一番間違った行動をしてしまうということ。自分の愚行は神を信じる心によって正当化されてしまい、再び己から目を背けることを許す。自分をよい人間だと思いたい欲望が邪魔をして、現実逃避を続けてしまう。

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