2018年6月8日金曜日

 私が研究したい内容について論文をかこうとすると、嘘をついているような気持ちになる。私が研究をしたいこと? 「そんなの、説明できない。」
 私はすべてが知りたい。すべてを知る一番の近道を探している。

 私の身体には物事の詳細が浸透しない。世界史をなんど反芻しても情報は不確かなものとしてしかとらえらない。私が見ていないもの、は私は知らないこと、に分類される。

 シェイクスピアについて語るひとの目はそれを価値がある行為だと信じる目をしてると思う。シェイクスピアについて知っていることはとても大切なこと。という神話。私は私が知っているひとについて話す。その人たちの目に触れて、言葉に触れて感じたこと。そこから「世界」という場所について私が思うことに形をつける。

 だけどひとはそういうことを「とるにとらぬこと」だと思うみたい。名前が教科書に乗っているようなひとの言葉でないと、食べる意味はないらしい。そんなことないよ。と私は思う。エリート意識が嫌いな私は、選ばれしりんごを食べるのが嫌い。「なんてえらそうなりんご」と思ってしまう。
 偉そうでないりんごを見つけると、心を躍らせる。「今日も明日もりんごだぜ」なんていってたら。「そうだぜそうだぜ 私は今日も明日も私だぜ」と横であいづちをうつと思う。

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