2018年6月2日土曜日

  フェミニズムについて読んでいるとフェミニズムの「罠」がよく理解できる気がする。「論理」もまた神話にすぎないということを私は哲学を通して理解してきたと思う。フェミニズム理論の言葉の多くが、女性をその神話の中に閉じ込めようとしているように感じてしまう。意味、理由で世界を分析していくことが「正しさ」への道だと信じ込んでいる。私たちも「理性的」でありうるのだから。論理的にならなければきっと価値だとみなしてもらえない。目が大きくなければ、胸が大きくなければ、顔が美しくなければ、論理的にならなくては。そういう不安を言葉から感じて、私は論理的になることを拒もうとすら思ってしまう。「感情的に」哲学をして何が悪いの。と。
 
 論理的思考の帰結は結局「非論理」である。最終的には「心」の問題に向き合わざるをえなくなる。だったら最初から「心」を無視しなければいいのに。なぜか心の問題を無視しなければ「問題はすすまない」と誰もがそのことを無視することから始める。

 無視したところで、どうせまた同じ問題に向き合うことになるのだから最初から触覚をあてることを私は選ぶ。心を論理的に分析するフロイトのような学者は心もまた「意味」で分解できると相変わらず神話を唱え続ける。「理解できない」ということがもたらす自己への失望に耐えることができないのだと思う。理解できないはずのものを理解できるものに変革していく快楽に負けてしまう。自己評価を下げてもいいから、わからないものにはわからないという必要があると私は思う。

 フェミニズムはフロイトに対抗するために女性の人生、身体には男性に定義されているものとは違う「意味」「価値」があると理論武装する。だけど、実はそれが私にとってはフェミニズムの「罠」なのだと思う。定義されているものに対抗することに生を使うことは、有意義に思えるが、結局は定義されたものに支配されているのと同じように思える。

 フェミニズムを信じないけれど私はフェミニストだし、アンティフェミニストの女性を見ると残念な気持ちになる。フェミニズムは女性による真理探究だと私は思っているから、アンチになる意味などない気がする。科学において「正しさ」を追求することは重要なこと。フェミニズは思考によって正しさを追求する。女性の思考力を信じるための学問だと思う。応援してくれなくてもいいけど、邪魔はしないで、と私は思う。

 正しさを希求する心を持った女性がいることはとても大切なことだと思うし、正しくないことを信じる女性が多いことはとても悲しいことだと思う。

 得をして生きていたい女性たちは、整形をしてほめられることは全部やって、それを「努力」と言い張ってちやほやされるみたいだけど、「だからどうした」と思ってしまう。嘘をついてほめられることが重要だというのなら、好き放題嘘にまみれて生きていただいてボトックスをたっぷり注射して愛してくれる人を探せばいいけど、私はそんな風に生きたくない。

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