2018年5月27日日曜日

「カレーは飲み物です」とかそういういかにも奇をてらった感じの不快指数の高いお店の名前があったけれど、「言葉は食べ物です」と私は思う。私たちはいろんな種類の言葉を食べていて、それをもとに「意識」を形成していく。

 だから一人一人がどういう言葉を世界に放つのか、というのはとても大切なことだと思う。言葉には二つの性質があり、粒としての性質と、波としての性質がある。科学者たちは量子力学の世界観に驚愕したみたいだけど私は「驚くことなんてどこにあるのかしら?」と思った。こんなのって、「日常生活そのもの」

 私の心は言葉の持つ「波の性質」にひどく反応するようにできてる。粒としての言葉は「意味」で処理される。だけど「意味」とは違う波をもつ言葉はとても多い。きれいな言葉ほどその波動は圧倒的に「不愉快」だったりするもの。その不愉快さに顔をしかめていると、不思議そうな顔をされる。「綺麗な言葉に顔をしかめる理由」が理解できないらしい。

 フェミニストたちの言葉も同じように整理していく。エレーヌシクスーは「女性は肉体について書かなくてはならない。」とか「性的快楽についてかきなさい」とかいうけれど、私は「なんでそんなことについてかかなくてはいけないの?」と思う。

 私は女性たちを「〜しなさい」から解放したい。自由の中で答えを出すことは一番難しいこと。完全な自由の中で、自己価値を定義していくのは至難の技だ。誰かの指示に従うことで得られる安心感は一切期待できない。だから、解放、というのは一番残酷なことでもある。朝一番からこんなことを考えながら苦手な掃除をする。苦手すぎて、永遠に終わらない掃除。世界を「意味」で整理するのが苦手だと生活は苦手なことだらけ。

 それで稚拙であるとか、怠け者だとか揶揄されることも多い。他者から与えられた人生の「意味」にすっかり身をゆだねて、価値だと賞賛されることはすべてやる人たちはおうおうにして掃除が得意みたい。そしてそのことでほこりがとても高くなり、人を厳しく断罪していい権利でも持っている顔をしてる。
 「バカかよ」とひそかに思いながら、私は掃除を続ける。

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