2018年4月3日火曜日

静寂。心の中が「しん」としているのがよくわかる。風ひとつふかず、さざなみすらもないような、そういう状態。
昨日は本町図書館に行ってきた。自転車で笹塚に向かい、途中にある並木道を右に曲がってしばらくすると幡が谷につく。幡が谷から初台の方向へ走り、住宅街の中にある本町図書館で自転車を止める。
 図書館は3階建てで、建物自体は少し古い。利用者は中年の男性、中年の女性が多い。個人でつかえるデスクは見当たらず、少し大きめのテーブルを囲う感じで人々が読書をしている。その一つに座り、勉強を始める。

 時々つんと鼻をつくような匂いがする。おそらく隣のテーブルに座っている男性からくるものだと思う。彼が席を離れると匂いはなくなり、戻ってくると匂いも戻る。ちらっと目をやるとその男性は耳の中に指を入れて、そこから出てきた耳垢を床にぱらぱらと巻いていた。

 私は不思議の国のアリスの洋書の単語帳を作る。子供用の本なのに、知らない単語はすぐに見つかる。それから哲学はバークリーの章を復習した。ジョン・ロック、ジョージ・バークリー・デビッド・ヒューム、彼らの哲学は恐ろしく退屈。だけど、体系的な知識を持ちたいので読む。

 退屈しのぎに高校のころ好きだった村上春樹の短編集を読む。神の子供たちはみな踊る。すっと言葉が頭に入っていくる。村上龍が、爆笑問題の田中に村上春樹と自分がどこが違うかを説明する動画をみた。「自意識のゆれみたいなもは大事だとは思うけど、僕はそのゆれよりもそれを吹き飛ばす何かが好きなんだ。考えてみると、自意識のゆれには限りがなでしょ、答えがないから。そういうものを吹き飛ばすものが俺は好きなんだ。たとえば、セックスとか、たとえば、戦争とか。それがいいとか悪いとかそういうことではなくて。」
 
  村上春樹は「答えがないこと」には「答えがない」と受け入れている気がする。答えを探してすがりつくように彼の本を読んでみても、それに答えてなどくれない。だけど、「大人たち」が変わりに答えを与えてくれるというのは、錯覚だ。「あなたの答え」が「わたしの答え」である必要などどこにもない。答えがないことについて考えていてもきりがない、と大人はよくいうけれど、きりがないこと、こそ考える必要があることなのだと思う。





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