2019年2月23日土曜日

 私が居場所を感じる場所はとても少ない。中野の図書館。それから銭湯。大好きだった下北沢にも、もう居場所を感じなくなってきた。「移動の季節かな」ワタリドリの直感。
だけど不思議と数珠つなぎみたいに、「新たな門」が開く。

 やりたい研究をやらせてくれる場所を見つけた。
 私がやりたいこと?私はプラトンの嘘をあばきたい。アリストテレスの嘘も。
 「そんな根本的なところから話していたら前に進まないよ。」という話をしたい。

 目的論もイデア論も嘘だと思う。大きなことを見逃して「説明してしまう」
 この世界を「説明できる場所」に変えてしまうロジック。私はそういうものが嫌い。
 大切なことはすべて「説明できないこと」のなかにある。
 
 価値があるものはなに?きょとんと首をひねる犬の顔。
 その答えを知ってる人を教えて。私は匂いを嗅ぎ回る。私は「香り」と「心」で世界を探り当てる。そして「ワンワン」とほえ始める。ここよ。ここ。ここを掘り下げないと世界の「真相」は見えてこない。

 たとえば、相対性理論。たとえば、量子力学。それから女性嫌悪。それとフェミニズム。イデア論の嘘と、目的論の嘘。すべての「知的な人々」の目の奥にずっとありつづける「クエスチョンマアク」

 「だけど一体どうしてわからないんだ。こんなにも多くのことを知ってるのに。」

 多くのことを知っていても知りえないこと。どんなに世界についての説明をついても手に入れられないもの。億万長者も手にいれられないもの。

 そういうものについて語ろうとする人たち。
 そういうものが何であるかを知っている人たち。
 私はそういうものについて語りたいと思ってる。でもそういうものについて語ってる本は、とても少ない。

2019年2月17日日曜日

今日も自転車で図書館。途中でオリジン弁当。不思議とオリジン弁当を食べるととても元気になる。なんて安上がりなボディ。英語の翻訳はこつをつかめば、苦痛には感じないことがわかった。論文も、仕組みを理解していけばなんとかかけることがわかる。一番苦手なのは「説明」自分の書きたいことをあらかじめわかってるふりをしなくてはいけないのが、できないみたい。
 私はプラトンのイデア論が嫌い。それとアリストテレスの目的論も。最近でいえば、ジョーダン・ピーターソンの言葉も嫌い。彼らが「無視しようとしていること」が好きじゃない。したり顔でニーチェやカントの話をしているのを聞いていると虫酸が走る。

 そう、私は感情的に哲学を読む。正しいことを聞く時は心のドアが開くから。
 ガラガラガラと自動ドアみたいに開く。私の心は全開に開くことを望んでる。
 「心のドアをノックするのは誰?」

 ノックされなくても勝手に開いちゃう。目を見た時に。
 私はその人の目を見る。

2019年2月16日土曜日

正常値に戻る。そうか。簡単なこと。単純なことに気がつく。私はまだ気がついていないことがたくさんあるんだ。まだまだ知りたいことがたくさんある。でもその知りたいことが本の中に書いていないことばかりだから、考えてばかり。「あーかしら、それともこーかしら」そしてびっくりなことに、宇宙の構図に気がついたりしちゃうの。クスクス。

 それなのに図書館に居場所を感じる。図書館にいると気持ちが落ち着く。それと街の銭湯とオリジン弁当。これさえあれば、案外お気楽に生きてしまうらしい。
 
 自転車に乗りながらつぶやく。「でもさ、本当かどうかってどうやって決めるの?」
結局さ。その人が本当のことを言ってるかってどうやって決める?

 言葉の意味が正しいかじゃない。意味の正しい嘘はたくさん存在する。
 本の中に並べられているのは意味の正しい言葉ばかり。だから私はあくびをしてしまう。「この人とお茶、したくないにゃぁ。」つって。

 私がお茶をしたい人。岡崎京子とはお茶をしたい。リスペクトールとも、もちろんしたい。アゴタ・クリストフとも。ヘレンレヴィットともお茶したい。あと、ニューヨークの先輩とも。彫刻家も。姪と二人で遊んだ時も楽しかった。姪が自由だから私も自由でいられる。それから私はお姉ちゃんっこだから、姉ちゃんと話すのも好き。

 ニーチェともお茶してあげてもいいよ。嫌いじゃないの。ニーチェのことは。サルトルとは喧嘩になると思う。ボーヴォワールは怖い姉ちゃんって感じ。シモーヌヴェイユとは一生の友達になれると思う。ルソーもね、嫌いじゃない。プラトンとアリストテレスは、蹴飛ばしたくなる。ロックは嫌いじゃないけど、遠くから見ているだけでいい。ニュートンはね、ケラケラ笑いながら会いに行く。彼が何を考えているのかはすごく興味ある。アインシュタインは好きになっちゃう。ホーキンスにはいろいろ聞いてみたい。

 だけどそれにしても(ため息)私はいつも一人を選ぶ。なんだかんだいって孤独が好きだったりする。さぁ、今日も感覚的な読書を続ける。論理的に言葉を並べてみるとすぐに凡庸さがこんにちは。私ってば論理的になろうとするととても人並みになるのね。ふふふ。
 
 だから論理的な門番たちは私を疑う目をする。「何をいってらっしゃるの?」

 さぁて私は何を言っているのでしょうか。クイズ形式。
 あてられる人には もひゃらら賞をあげましょう。

2019年2月10日日曜日

最近、試験勉強の合間に、討論番組をよく見ている。その様子をみながら「この人たち、一体何を話してるんだろう?」と時々思う。すごく頭がよさそうなのに、言葉が頭の中に浸透しない。

彼らはみんな怒っているように見える。わからないことがこの中にあることが怖いみたい。その不安を言葉でうめつくす。私はそれを見つめながら。クスクス笑う。
「わからないことが怖いの?」だったら、この世界は「恐ろしい場所でしかないでしょうね。」わからないことだらけ。1秒後に何が起きるのかも結局私たちはわからないわけだから。本で学んだことを並び替えて彼らは自分たちが思考していることを生真面目に話す。シェイクスピアだ、聖書だ。いや、ドストエフスキーだニーチェだ。ソクラテスだ。スピノザだ。「難しいことについて語れることが知性だって」本気で思ってるみたい。


でもあなたは不安なんでしょ?それでもわからないことがこの世の中に存在することが。こんなにたくさんの本を読んだのに。こんなに毎日考えているのに。って。目をみればわかる。きっとそれでもあなたは「わからないんだ。」

 本を読むの、やめたほうがいいんじゃない?って私は思う。まず、相対性理論と量子力学の関係をよく見つめること。。それから、ニューヨークにいって、かっこよすぎる帽子をうるお店にいって、似合う帽子を探してみること。かっこよすぎて背中ビッチョリ汗かいたら、今度はへんてこりんな彫刻をよーくみてね。それからアッジェとヘレンレヴィットの写真集を反芻するように見つめる。それから下北沢の写真屋さんで証明写真をとるのもおすすめ。心を込めて、とってもいい顔を引き出してくれます。近くの中華はとっても美味しいです。お兄さんとの会話も楽しい。

 研究はとてもしたい。だけど、今の生活もすごく気に入ってる。
 だから、お別れはすごく寂しい。

2019年2月8日金曜日

相変わらず、ジョーダン・ピータソンのビデオを見てる。でも、冗談みたいなコメントしか浮かばない。冗談・ピータソン。クスクス。

論理的思考って本当にやっかいね。って私は思う。「御愁傷様」と。
そんなにたくさん本を読んでるのに、こんな簡単なこともわからないの?と。
彼の言葉を耳に入れながら私は考える。

彼は嘘をついている。

それは彼の言葉の並べ方でわかる。彼の「ロジック」の元には何かが隠れている。
それは彼が語ることを禁止しているもの。そしてそれを肯定するロジックを探しては、それについて語りたがる。「俺は悪い人間なわけじゃない。ただロジカルに考えてるだけだ。」

公平に聞こえる彼の言葉の中にひそむ感情を注視する。彼が「事実」だと強調したがる「すべて」は彼が何を「見つめたがるのか」を示す。そして彼が「事実」として並べたがるカードを見て、私は彼の思想の根底には「差別的感情」があると私はおもう。

ヒエラルキーに関しても「存在する」と言っているだけであって、それを肯定するつもりはない。と彼はいう。そして男女の差についても「存在する」というだけであって、それだからといって不平等が正しいというわけじゃないという。同性愛のカップルの子育てについても「もちろんしてもよいと思うが、どうやってするかが問題だ。子供は男と女のロールモデルが重要であることは、生物学的にも証明されている。」という。そして、トランスジェンダーの人に対する差別意識はないといいながらも、「だいたいのトランスジェンダーの人は醜い」ということを「事実」として指摘する。

彼は事実を並べているだけであって、意見を言っているつもりはない。なんども主張する。だけど事実の並べ方で思考はコントロールされる。そのくらいのことは彼は理解しているはずだ。彼が強調したがる事実はいつだって「差異があることを証明できる事実」だ、それはすべて一歩間違えると「差別を肯定する事実」となりかねない。

差別をする人は、自分が差別をしているとは思わないものだ。「自分は「差」を指摘しているだけだ。」というのは差別を肯定するロジックの王道だ。それは「科学的事実」だ「論理的検証の結果だ」そうやって肯定されていくものだ。

チンパンジーの雌はぬいぐるみを選ぶし、チンパンジーのオスは物を選ぶ傾向があると彼は指摘する。だからオスと雌に差異はあるのだ。と彼はいう。

私は思う。「それで、チンパンジーの雌は怒っているんですか?」と。「私たちだって、本当は物で遊びたいと怒って、オスからおもちゃを奪おうとしますか?」怒り出したチンパンジーに「差異は自然なものだ」ことと伝えることに意味はあると思いますか?あなたは「私は事実を述べているだけだ」と言い続けますか?

私は不思議で仕方がない。私だったらチンパンジーの話を聞きたい。
怒っているということはそれが「自然」じゃなくなってきている証拠。何が自然かを決めるのはその身体を所有している人だ。

2019年2月6日水曜日

 「やらなければならないこと」を「やることに」身体が抵抗する。「目的論的な」考え方をすることに抵抗を感じる。「だってそれは人間が作りだした嘘だから」私の身体は唱える。論理で整えられた世界を信じないように「あらかじめ」設定されているみたい。

 ジョーダン・ピータソンの言葉を耳に入れていると、「説明しきることが重要である」と考えていることがよくわかる。多くの哲学者が奔走した道。「理解できないことをなくしていくための戦い。」

 ジョーダンピータソンと会話する機会があったら私は何を言いたいだろう。
 
「そうだ、この丘を超えて右に曲がったところにクリーム色の3階建の家があるの。
そこには奇妙な彫刻家がいてね。その人とお茶でもしてみるといいわ。彼女の言葉はメレンゲみたいだから、お茶にはとても合う。彼女はコーヒーは飲めないけど、紅茶は好きみたいよ。テイータイムを楽しんでね。ジョーダンピータソンさん、あなたの言葉の並べ方は力強くて聴き心地はいいけれど、あまり美味しいとは思わないわ。結局のところ、そうだね。とても大衆的という印象。映画でいうなら、バットマンみたいね。刺激的で心を動かすけど、終わったあとに「なんだかあんまり実はためになっていない気がする」ってやつ。笑。」

2019年2月5日火曜日

引き続き時間を見つけてはジョーダンピータソンが討論する動画を見ている。
私は心に尋ねる。「彼の言葉を信じるべきでしょうか?」「いいえ、信じるべきではありません」

「男と女」は存在する。と彼はいう。私は笑う。「ほら、また出た。」
哲学を勉強しながら、いつも違和感を感じていた。「言葉があること存在の証明にはらない。」

 姉に話す。まるとさんかくは存在する。と思う?実はね、まるもさんかくも存在しないんだよ。存在するのは「言葉だけ」まるを見たことがある人、さんかくを見たことがある人は「現実に存在する」と思うかもしれない。でもそうではない。世の中に存在するすべてのものは「完全な円」でもなければ「完全な三角」でもない。つねに、その間にある形なのだ。

私たちは境界線にあるものを無視することで、「まる」はある「さんかく」はあると言えるだけのだ。だから男と女の「あいだに」あるものは、「男」と「女」が存在すると言い切りたい人間によって排除される。二つのカゴの中に分類できれば無秩序な世界を生きる苦痛から逃れることができる。それが「論理的思考」の落とし穴なのだ。

私が危険な思考だと思うのは、分類できないものを無視してしまう思考だ。多くの人々が自分たちが言葉で整理した世界こそが本当の世界だと思い込んでしまう。言語能力の高い人間はみな、「自分に認識できないもの」は「無い」と考えてしまうよう。無視されていると感じるものは当然、怒り出す。「私たちの性別には言葉がないだけだ」と。人間の数だけの性別があり、それを定義することは不可能だということを私たちは認めるべきだ。まるの形や三角の数やその間にある形が無数にあり、それ一つ一つに名前をつけるのが社会にとっては「不都合」なだけだ。だからといって「男」と「女」が存在するわけではない。あるのは人間が世の中を整理するために必要だと考えた「概念」だけだ。

私は論理的思考が苦手だから「無視すべきものなんて世の中にはなにもない」と考えてる。「無視すべきものがある」と考える思考は抑圧の力に加担する。「境界線」に存在するあいまいなもの、定義されづらいもの、そういうものは「不便」だと社会から取り除こうとする。
 
ピーターソンは気づいてないが彼がことさら嫌うのを見ていると、「いったいなぜに?」
という気持ちになる。プラトンもアリストテレスも偏見に満ちた間違った考えを持ったまま、自分たちの言語で世界を記述した。彼らの言葉は今も、世界中で研究対象となっている。ジェンダー学がもしも偏ったものの味方をしていても、それだけを断罪するのはおかしい。もしも偏ったものの味方をしている学問を断罪するなら、アリストテレスやプラトNん、ニーチェ、ロックやルソーの考え方の間違いについても、多く語られるべきだ。